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Profile / 作家紹介
篠原 貴之 SHINOHARA Takayuki
阪急うめだ本店美術画廊(’97年〜)、銀座松屋(’03年〜)、伊勢丹新宿店美術画廊(’95年、’97年、’99年)、Bunkamura / 渋谷(’13年、’14年、’16年、’19年)等をはじめ、全国各地で展覧会活動を展開する他、依頼を受けての襖絵や肖像画、小説や雑誌の装画やカレンダーの原画、テレビ番組とのコラボ等、水墨画を活かす様々な分野を舞台とし活動。
水墨画という東洋独自の伝統技法を使いながらも、西洋と東洋の垣根を取払った自由な視点で、現代の感性にフィットした水墨画の世界を創りだす。
略歴
1961年 京都生まれ
1980年 京都市立日吉ヶ丘高等学校美術工芸コース西洋画科卒業
1986年 京都市立芸術大学美術学部彫刻科卒業、同大学院彫刻科入学
1987 – 90年 イタリア国立ミラノ美術学院彫刻科に、イタリア政府給費留学生として留学
1990年 京都芸術短期大学(現京都造形大学)にて講師を務める傍ら、李庚先生、藤原六間堂先生の指導を受け水墨画を始める
1992 – 94年 中国中央美術学院国画科に文部省派遣中国政府国費留学生として留学
1994年〜 水墨画の創作、発表に専念
1997年 篠原貴之水墨画集『空と人と大地と』を出版
2001年 篠原貴之水墨画集『墨いろの旅—イタリア・日本—』を出版
2002年 直木賞受賞作『生きる』(乙川優三郎著、文芸春秋刊)の扉絵を担当
2003年 篠原貴之水墨画集『墨いろの情景』を出版
2005年 梅林寺(豊中市)に襖絵「降魔成道—菩提樹の下で—」を奉納
2007 – 14年 国立新美術館にて現代水墨作家展招待出品
2009 – 14年 京都を拠点とする日本画家グループ NIHONGA・京(日本橋三越本店 企画)結成、参加
2010年 ポルトガル国立ポルト大学美術学部にてアーチストレジデンス(制作、展覧会、授業)フランス ニース リオン近郊にて水墨ワークショップ
2011年 繁久寺(富山県)に襖絵「万葉故地」を奉納
2012年 パラッツォ デッレ プリジオーニにて個展(イタリア ヴェネチア)、ブーアルジェンタにて個展(フランス ローヌ)
2013年 NHK音楽ドキュメンタリー番組「涙の書」のための水墨画作品 20点制作
2014年 フランス人水墨画愛好グループART ZENの依頼で、京都美山 奈良にて水墨画研修会を企画、講師を務める。
An encounter with Sumie / 水墨画に至るまで
美術との出会い
私が美術の世界に足を踏み入れることになったきっかけというと、6歳の時に近所の「子供アトリエ」に通い出したことでしょうか。当時京都市立芸術大学の大学院生だった川端紘一先生が自宅で子供たちを教えていたもので、たまたま幼稚園の友達が通っているのを知り、自分もやってみたいと思ったのです。先生と遊ぶような感じで絵を描いたり工作をしたり、小学生の頃からは油絵なども描いていました。私の場合、育った環境は特に美術に関係が深いといったものではなかったのですが、川端先生とはその後もずっと個人的なおつきあいが続いて、いろいろな影響を受けました。
子供アトリエをやめた後も絵は描き続けており、高校は京都市立日吉ヶ丘高等学校の美術工芸コース西洋画科を選びました。この学校の前身はもともと御所の中にあった京都府画学校で、6・3・3制の施行により、現在の京都市立芸術大学と日吉ヶ丘高校とに分かれたという歴史があります。こういったタイプの高校は他にあまり類がなかったので、東京や九州など、いろいろなところから生徒が集まってきていました。特に伝統工芸関係では親子2代にわたってこの高校を出ているという人も多く、卒業するとすぐどこかに弟子入りしたり家の仕事を継ぐというケースも珍しくありませんでした。
ただ、美術以外のものがまったく眼中になかったというわけではなく、進路を決める時にはいろいろと迷いました。音楽も好きでしたし、中学時代ずっとサッカーを続けていたので、スポーツをやりたいという気持ちも強かったのです。しかし、たとえば好きな音楽家やサッカー選手のプロフィールに「親の影響で3歳の頃からピアノを弾いている」とか「歩き始める前からボールを蹴っていた」などと書いてあるのを見ると、どうも先行きが難しそうに思われました。まあ、美術だったら自分も小さい頃からやっているし、なんとかなるのではないかと中学生ながらに考えたわけです。
日吉ヶ丘高校の校風は、他の一般的な高校とはずいぶん違っていたと思います。もともと他の高校に通っていたけれど自分に合わないということで再入学してきた生徒や留年する生徒も多く、同じ学年でも年齢はいろいろ。制服はなく、欠席日数もまあ三分の一を越えなければ大目に見られていました。先生方も授業がない日や自分の展示会がある時は学校にこないという具合で、ほとんど大学のような雰囲気だったのです。
ただし、教育内容自体はかなり古いスタイルを踏襲していました。私は洋画を専攻していましたが、授業の多くは石膏デッサンや風景写生でした。私が一番好きだったのは、野外での風景写生です。学校の裏が山でしたから、キャンバスと絵の具箱を抱えて山の中を歩き巡ったものです。途中、栗を拾ったり、あけびを取ったり、時には焚き火をして酒盛りになったり、思い出してみると、今とあまり変わりがないかもしれません。午前中だけ普通の学科をやって、午後はそんなふうに美術の実技でしたから、勉強などはほとんどしませんでしたが、今になって思うと、デッサン等アカデミックな教育はここで培われたものです。
大学時代
高校卒業後は、京都市立芸術大学美術学部の彫刻科に進みました。小さい頃からずっと油絵を描いてきていたので、どうせなら大学でしかできないことをやろうと思ったのです。彫刻の場合、場所と機材を提供されないとなかなかできませんから、まあ取りあえずそこを通って行こうというぐらいの気持ちでした。何か創りたいという意識は強かったのですが、それが結果的にどういう形になっていくかというようなことは、当時あまりはっきりしていませんでした。
大学時代は、試行錯誤の時だったといえます。当時の京都芸大は現代美術が主流でした。もちろんそれまで自分の知らなかった世界ですし、好奇心をもって取り組んではいたのですが、どうも大学にはいってから作り出したものが自分自身の美術や芸術に対する考え方とはずいぶん違っているという思いが拭きれず、途中から作品が作れなくなってしまったのです。2年の終わりから3年までちょうど半年ぐらい、制作をストップして図書館にこもり、現代美術についての資料をいろいろと読みあさりました。いくら本を読んでも何の解答にもなりませんでしたが、ただその間に少し頭が冷まされ、過去のものを否定して新しいものを指向する現代美術の流れの中で、自分がその「新しさ」の本質をスタイルの違いといったような表面的なこととはき違えていることに気がつきました。なぜ表現するのか、という原点を忘れ、内面が空っぽな状態で新しい形式だけを求めていたのです。表現の主題がないこと、これは大変深刻な問題です。それは、今生きていることに感動がない、心を突き上げられるようなリアルな体験がないということを意味するからです。
その後抽象彫刻をやめ具象を造り始めるなど作品上の様々な試みをしましたが、心の底では、今までの人生をひっくり返すような何かに飛び込んでいかなくては何も変わらないという思いが常にありました。結局その思いがイタリア行きを決め、大学院は中退することとなります。
このような経緯を考えると、私にとって大学時代は、具体的に何かを勉強したというより、周囲の状況や漠然としたあこがれといったものとは別に、自分が本当にやりたいことを明確にするためのステップになったという気がします。自分と違う場に身を置くことによって、逆に自分がはっきりしたともいえるでしょうか。
イタリアヘの留学
その後大学院の2 年目に、イタリア政府給費留学生として、イタリア国立ミラノ美術学院の彫刻科に留学しました。本当は、大学院を修了してから留学するつもりだったのですが、1度ではパスしないだろうから、とりあえず顔だけでも覚えてもらおうというぐらいの気持ちで受けてみたところが、意外にも受かってしまったのです。この時点では語学もまだまだ不十分でしたし、予期しない結果にすっかりあわててしまいました。現地では、給費留学生だからというケアのようなものは何もなく、銀行にお金だけ振り込まれて、後は全部自分でやれという具合です。とにかく初めは右も左もわからないような状態でしたが、まあなんとか慣れるもので、3年近い滞在の間とうとう日本には1度も帰りませんでした。
留学地としてイタリアを選んだ理由は、今まで学んできた西洋美術をじかに見てみたい、そしてまたヨーロッパの現代美術の最先端に触れたいというものでした。当時はトランスアヴァンギャルド(新表現主義)が全盛で、特にイタリアにはいろいろとおもしろい動きがあり、そのへんにも大きな興味を持っていたのです。日本の現代美術はアメリカの影響を強く受けていますが、ヨーロッパにはそれとはまた違ったものがあるのではないかと思い、「新しいイタリア」を見ることに期待してもいました、ところが実際に行ってみて感じたのは、現代美術といわれる形は、地域により微妙な感党的違いはあるにしても、いまや全世界共通だということでした。そのため、だんだんと新しいものを見なくなり、むしろ博物館や教会などで古い時代の美術品に接することの方が多くなっていったのです。歴史をくぐり抜けてきたこれらの作品の中には、はるかに時を隔てていながらも強い感動をもたらしてくれる、非常に確かな何ものかが感じられました。自分はこういった感動を求めて美術を志したはずだということが、そこで改めてはっきり認識できたのです。
水墨画との出会い
私が水墨画を始めるきっかけとなったのは、イタリアで彫刻を学んでいる時に描いた人物クロッキーでした。日本の毛筆を使ってモデルを描いていたのですが、それがイタリア人の注目を集め、高い評価を得たのです。当時遠く日本から離れた地にあって、自分の中の東洋人的な性質をいやがうえにも自覚し、また共に制作しているイタリア人たちが私の「東洋性」に期待していることも知っていました。自分の彫刻作品には、その一東洋人「篠原」としての独自のテーマと表現がないことに悶々とし、試行錯誤を繰り返している時でした。その毛箪のクロッキーヘの彼らの反応は、いい彫刻を作った時とは類を異にする確かな反応でした。
イタリアで水墨画に出会うとは妙な話ですが、その地で手に入る限りの資料を集め調べていくうちに、その奥深い世界に新たな可能性を感じるようになったのです。その頃たまたまフランスから出ていた中国近現代の水墨画集で初めて斉白石の作品などを目にし、ショックを受けました。 初めから水墨画をやっていた人とは違う感じ方かもしれませんが、むしろ非常に抽象的で、現代美術にも通じるものがあると思われたのです。そこには、長い間日本で美術を勉強していながら、それまで全然知らなかった世界がありました。こうした決定的な出会いを経て、本格的に水墨画に取り組むために、留学3年目にしてとうとう日本に帰る決心をしたわけです。
「何故、彫刻から水墨画に」と尋ねられることも多いのですが、私自身この二つは技法こそ違え、非常に似た質のものであると認識しています。水墨画には、他の絵画とは異なった独自の奥行きがあります。1本の筆をもって、紙の中にどれだけ深く墨を突き刺すか、そしてシャープに切るのか、こぼれるように切るのか。やり直しや、ごまかしのきかない一発勝負です。この「筆と紙」の関係は、まさに彫刻における「木と鑿」「粘土とへら」の関係です。彫刻の場合、たとえば扱う素材を石から木に変えるということだけでも、技法的にはまったく一からのやり直しであり、それを考えると水墨画に移ったということについても、素材が変わったというぐらいの抵抗しかありませんでした。
イタリア留学で得たものの一つには、現代美術に対する自分の考え方がはっきりしたということがあります。それ以前には何をやっても、本当にそれだけでいいのか、他にもっとすることがあるのではないかという疑問に常につきまとわれていたのですが、今私は、水墨で人物や風景を描いていて、それだけでいいと思うことができます。昔も人物や風景を描いていた人間がいたし、自分も今こうして同じテーマを自分なりのアプローチで追求している、そのこと自体はそれでいいんだと考えられるようになりました。
日本で水墨画を学ほうと思った時、まず頭に浮かんだのは李庚先生のことでした。実は李庚さんとは、京都芸大の日本画科の留学生ということで、イタリアに行く前から親しくしていたのです。中国の有名な画家の息子さんだということは聞いていたのですが、そのお父さんの名を李可染と知って驚きました。李庚先生には、紙のことをはじめとして、水墨画の基礎をいろいろと教えていただいています。もう一人の師は、岡山の藤原六間堂先生です。初め藤原楞山先生の水墨画の本を読んでお手紙を出したのですが、当時もう亡くなっておられたので、その息子さんの六間堂先生から指導を受けるようになったのです。そして、京都芸術短期大学の講師としてクロッキーなどを教えるかたわら、この2 人の師について日本で2 年ほど勉強した後に、中国・中央美術学院に国費留学生として留学しました。自分が水墨画の中で特におもしろいと思っている要素が、多分に中国からきているものだということに気づいたため、それならば現地に行って学んだ方が確実なものが手に入ると考えたのです。
中国にて
中央美術学院では、まず国画科の人物班というところに入りました。中国では、古くからある肖像画などを別にすると、人物画というのは比較的新しい分野です。よくいわれることですが、用筆は風景画から、用墨は花鳥画から学んで人物を描くという姿勢で、模写も風景と花鳥の両方をやりました。人物画で多く模写したのは、近代の蔣兆和の作品などでしょうか。
中国では、伝統的な水墨画を学ぶ傍ら、スケッチ旅行と称して各地を放浪していました。中国の場合交通の問題などからしても2泊3日の小旅行というわけにはいきません。主に長期の休暇などを利用して、長い時は1〜2カ月ぐらい、リュックをかつぎ、電車を乗り継いでの旅でした。当時描いた人物画は、その路傍で出会った人たちです。何故彼らに惹かれ、そして描くのか、その意味も問わずただがむしゃらにその感動を留めようと、彼らの姿を描いていました。
そのようにして描きためた作品を集め、北京の中央美術院画廊で初めての個展を開催したのが1993年。中国に渡ってから2年近くが過ぎていました。この展覧会は、幸い大変好評でした。その要索はいくつか考えられるのですが、一つは、絵自体が持つ彫刻的、立体的な要素です。これが中国の人たちが一般に持っている感覚と全然違うということで、注目を受けました。それからまた、ただ人間を描く、それ自体が創作のテーマになるということが、彼らにとって新鮮だったようで、このような作品の成り立ち方に、若い人達はずいぷん興味を示していました。中国では絵を勉強するにあたって、まず写生、それから創作、という段階分けがあるのですが、私の場合それまでずっと、お前の作品は創作ではなく写生だと言われ続けてきたのです。自分としては、これ自体が創作なんだと説明するのですが、ことばの壁もあってなかなかわかってもらえませんでした。その人たちが、展覧会を見て初めて、お前の言っている意味がわかった、これは確かに創作だ、と認めてくれたのです。
確かにこうしてリアルに仕上がってしまうと、そこにいる人物をありのままに写生したように思われるかもしれませんが、実際にはそうではありません。数え切れないほど描いたスケッチをもとに、そのエッセンスともいうべきものを抽出して作り上げた人物像であり、スケッチとはまったく違う作品が生まれることも少なくありません。これらの作品を描いているうちに気づいたのは、自分が本当に描いているのは、路傍で出会った人々の姿そのものではなく、彼らの中に見た自分の中のいとおしいものであったということでした。老人に見た威厳、幼い少女に見た強い自意識、少年の戸惑い、たくましい農夫の笑顔・・・。すべて愛すべき自分の姿だったのです。私は、この時ようやく自分の主題を見つけたと思いました。
風景スケッチを描き始めて
1995年に日本へ戻り、まず人物画に取り組もうと思ったのですが、まだ日本人をテーマにして納得のいく作品は描けていません。どうも中国人に比べると、日本人にはあまり強い個性が感じられず、その人の背景とか、いろいろなことを考えさせられるような顔というのがあまりないのです。何か、その人の性格や職業をステレオタイプ化して見てしまい、逆にその人自身の人間性のようなものが見えにくくなっているような気がします。
そんなこともあって帰国後間もなく、旅で出会った風景を描く水墨スケッチシリーズを始めました。風景を描く時も、私の興味はいつもその地に生きる人にあります。人に出会うと、この人はどんな風景の中で生まれ育ってきたのだろうと思いを巡らせるのです。断片的にではあってもそんな想いに応えていくような風景画を描きたいと思って始めたスケッチで、これまでに、北海道、沖縄、岡山などを描き次いできました。
風景画のモチーフを選ぶのにはいろいろなケースがあります。まず、その場所が本当に気に入って何度も通い詰め、さまざまな気象条件や光の具合のもとでいろいろな表情を観察して、その中の一つを作品にする場合があります。沖縄のスケッチの多くは、こういう描き方でした。それとは別に、とりあえず白分の位置を決めて座ってみるというパターンもあります。たとえば61ページ(※)の東寺の門を描いた作品がそうですが、これは人物がいないとまるで絵になりません。たまたまこの人が通りかかったことによって作品ができたわけです。もっともこのおばあさんは実際には二人連れだったのを一人に変えていますが…。そんなふうに、偶然に影がパッと落ちるとか、日が陰るとか、雨が降るとか、そういった何かちょっとしたことで絵が生まれてくる場合もあるのです。
(※画集のページを指します)
紙・墨のことなど
私は人物画を描く場合は画仙紙を使っていますが、風景画は洋紙に描いています。これは一番には、現場で作品を仕上げたいということが理由になっています。今後はまた変わっていくかもしれませんが、取りあえず今は現場で描きたいという気持ちが非常に強いのです。洋紙は丈夫ですから、多少風があっても雨が降ってもどんな状態でも描くことができます。
それから、本当はこれが最大の理由なのですが、洋紙は画仙紙に比べて扱い易いということがあります。画仙紙を使う場合、筆の選び方から、墨の使い方、用筆に至るまで、非常に緻密に計算しなければなりません。もちろんいい加減に描こうとすればある程度は描けますが、私がやろうとしていることには、そういった綿密さと自在さの両方が必要なのです。ドウサを引いて描くという方法もありますが、私は画仙紙を使うなら生の画仙紙の性質を十二分に生かして描きたいと思っています。
その点洋紙はそんなに計算しなくても楽に描くことができます。もちろんにじみなどの部分で画仙紙のような効果は出せませんが、墨が溜まった感じなど、洋紙だからこそ出せる効果もあり、また紙が丈夫なので墨を何層にも重ねていくことも可能です。私が今描いている作品では、描いていく過程で起こった現象がその絵の在り方を決めていくという要素が強く、これはこれでなかなかおもしろい素材だといえるでしょう。
画仙紙も、人物画ではかなり使いこなせるようになったと思いますが、風景ではまだ難しいというのか本当のところです。たとえば、竹という画題は水墨画の大きなテーマの一つとなっていますが、それは竹そのものがどうこうというよりも、竹の葉なり幹なりの形態が筆の機能をはじめとするいろいろな要素とうまく合致したことによって発展してきたという事情があると思うのです。ですからそういう合理を無視しては、表現の意味がありません。風景にしても、ごく限られたものなら描けるかもしれませんが、それよりもっと多様な風景が描きたいとなると、私が目指すところに到達するまでには、まだまだ時間がかかるでしょう。
もちろん最終的には画仙紙を使って完成された風景作品を描いていきたいというのが目標ですが、私はそれをかなり長いスタンスで考えています。画仙紙の場合、描く際に少しでも迷いがあってはいけません。そのためには、数を非常に多くこなして、どんな風景があっても、それに合致した描き方ができるようになる必要があるでしょう。現在洋紙で描いているのは、私自身はまあ最終的な目標のための一段階と位置付けています。まずはこれで行けるところまで行ってみようという心境です。 描き順についていうと、基本的には一番濃い墨から入れるようにしています。紙に最初に食いつく墨というのが一番しっかり発色してきれいに見え、その上から重ねた墨は、すでに紙の繊維に膠分が入ってしまっているため、どうしても甘い感じになってしまいます。生き生きとしてきれいに見える黒と、意図的に発色を抑える黒との組み合わせで効果を出していくわけです。絵を描く場合には、作業として描きやすい手順というものもありますが、全体の効果を考えた場合、それとはまた違ったところの描き順が必要になってきます。
今後の展望
今後も旅をし、その中で出会った人や風景を墨で描いていこうと思っています。
旅は、感性を日常から解き放ち、新鮮な感動を与えてくれます。新しい出会いにより、自身が少しずつ変わり、絵も変化していく、そんな仕事を続けていきたいと思っています。私が一番大切にしているのは、対象を見るまなざしです。難しいことではなくて、どんな人たち、どんな風景をどんな目で見るか、それは私の思想です。常に自分を重ね合わせたやさしいまなざしでありたいと思っています。
出典: 画集「空と人と大地と」1997年・日貿出版刊 巻末インタビューより
Creation note / 制作ノート
里山に暮らす
前回の画集(『墨いろの情景』2003年・日貿出版社刊)を出した後、僕の中で最も大きな環境の変化は、住まいを郊外の里山に移したことです。子供の小学校入学に合わせ、公共交通機関はバスが1日に三本、全世帯数が四十数戸、小中学校合わせて児童生徒数十数名という集落に移り住みました。 このことはプライベートにおいてはもちろん、絵の創作においても大きな変化をもたらし、今はここからの視点が思考や感性のまさしくベースとなっています。
この地は棚田と昔ながらの集落が美しく、二年間大学浪人をしていた時代に、時々バイクでスケッチに訪れていた場所です。西に開けていることから特に夕暮れ時が美しく、日が沈んでからも帰るのが惜しくて、薄暮から闇に包まれるまでずっとこんなところにいることができればと思い続けていました。 思えばかなうもので、縁あって二十年後、この地に移り住むこととなったのです。
創作の上で最も意味深いことは、絵(風景)の真っ只中にずっといるということです。四季という四つの時間を持ったデジタルの季節が、切れ目のない秒針で一年を巡るアナログの季節となりました。季節や気象条件により風景は大きく変わります。霧が立つと、目の前には林と山があると思っていても、今日の朝には山はなく、明日の朝には山も林、空までなくなる時もあります。目の前の風景は現象であるという概念ではなく、疑う術もなく「無い」のです。
一期一会を目の当たりにすることで、今という時間に現れた景色を、よりいとおしく思うようになりました。
また長く住んでくると、そこにまつわる人や出来事などの物語が、その一瞬の風景に奥行を与えてくれます。子供たちと駆け降りた坂、雪をかき集めかまくらを作った吹き溜り。静物にしても、近くのおばあちゃんが丹精込めた初物のキュウリを描くのと、スーパーで形と色の良いリンゴを買って描いていることとは違います。今まであまり描いてこなかった花や野菜等もよく描くようになりました。
地元の風景や自分の物語だけを描いている訳ではないのですが、今という時間と、その時間に至る物語が、それぞれにあることを想像する視点が、僕の創作のポイントになってきていると思います。
旅について
僕は旅が好きで何か機会があればどこにでも出掛けます。もちろん仕事ということで絵を描きに行くのですが、正直旅をしたいがために、絵を描いているというところもあります。
会社に行くこともなく、毎日一ヶ所でずっと絵を描いていると、いくら好きな景色といえども感覚が鈍り、息が詰まってきます。そんな時、知らない場所、見たこともない風景に出会うとワクワクするのです。
いつもと違う人と語り、違うものを食べ、違う文化に触れると気持ちが解き放たれます。そして、しばらくして家に帰ると、また新鮮な目に戻り、自分の居場所を輝いた目で見ることもできるようになります。
新鮮な目と心を保ち、独自の視点を持つための僕の秘訣は、旅にあります。 当初、子どもは旅の足手まといかと愚かな考えを持っていましたが、シチリア人の友人に「子どもは二枚目のパスポート、そのパスポートがあればどこに行っても、扉が開き歓迎されるだろう」と一喝されました。その後、家族と共にイタリアだけでなく、フランス、ポルトガルも旅しましたが、まさしくその通り、子どもたちがいとも容易く扉を開けてくれました。旅人といえど、扉の中に少し入ると見えてくる景色もちがってくるものです。
写生から
僕の作品は写生から始まります。それは立派な理由からではなく、子どもの頃から僕にとって絵を描くことは空言を自由に描くことでも、漫画のヒーローを描くことでもなく写生でした。そしてその行為自体が好きなのです。他にやらなければならにことから逃げ出す開放感や、集中してきた時の風景との一体感、うまく感じが表せた時の充実感、その楽しみは子どもの時と今もなんら変わりありません。
制作の上で写生をする意味の一番は、単純に現場で見ないと見えないものがたくさんあるからです。
写生というと移しているだけのように思われますが、それは思索の時間でもあります。見ているものと、目の前にある視覚的情報は違うものです。写真に撮っても、それは見ているものと大きく違います。となると自分は何を見ているのか、何を描けば見ているものに近づくのか、その問いを写生を通して問い続けているのです。
写生と呼んではいますが、下絵ではなく、僕は直接墨と筆で作品を描いていきます。 一期一会の風景に対し、やり直しのきかない墨と筆であれば、こちらも覚悟が決まります。墨だけなので道具立ては簡単なものです。筆が三、四本、墨液、絵皿(プラスチックのランチプレート)、水(フタ付きのタッパーに水)、雑巾、パイプイス、これらを蓋の無い道具箱に入れて持ち、紙をクリップでとめた画板を抱えて行き、座ればもうそこが僕のアトリエになります。 写生した絵は、多くの場合、全体の調整がまだ必要で、アトリエに戻ってから仕上げます。仕上げ方によっていろいろ姿を変えてゆきますが、決め手は写生の段階での筆の運びです。臨場感のある現場の空気の中でしか描けない、感覚的で、思い切った筆跡があると、後で仕上げてまとめても絵は元の伸びやかさを失いません。写生でしか得られないものが大切だと思っています。
水墨画について
水墨画を初めて二十五年となります。それ以前は油絵や彫刻をしていましたが、三年間のイタリア留学が、帰国後に日本や東洋の美術を見直す契機となりました。その中で東洋独自の表現方法である水墨画に可能性を感じ始め、本場中国で二年間水墨画を学びました。それからというもの、水墨画に取り憑かれ、今に至っています。
水墨画の表現が僕の性格に合ったのだと思います。今やっている既成のやり方に、いつも「そうじゃなくてもいいんじゃないの」という、少しひねくれた反逆的な性格に、水墨画はことごとく応えてくれるからです。 カルモノや小さなものを大きな筆で描け、重いものは小さな筆で、白いものを黒く描けといわれ、また黒ものをもっと白くといわれると、混乱して直ぐには受け入れられないものもたくさんありました。しかし、この違う発想法にたとても刺激を受け、何をいっているのか知りたくなり、この中に自分の世界を作る鍵があるように思われたのです。
また、色を使わない、筆だけで描くという制限は、表現を生み出します。色を使わず椿の花と葉をどう描き分けるか。細かく描写ができない筆で、さざ波をどう描くのか。絵としての表現を考えざるを得ません。さざ波の一つ一つの形を分析するのではなく、ちらちらとひかるその感じを渇筆の大きな筆でさっと一度撫でただけの筆跡で表してみると、まぎれもないさざ波が現れます。できたものを見ればなんでないようですが、作り出すのはなかなか難しいものです。
表現に変える際、「そうじゃなくても良い」という発想の転換を要求されるからです。これは絵画の本質で、油絵や水彩画でも同じことですが、水墨画では、表現に置き換えないと絵にならないので、どう描くかを強制的に考えさせられるのです。その意味で水墨画は最も本質的な絵画の一つだと思います。
水墨画を描く上で大切にしていることは、自在な運筆の美しさです。運筆は水墨画の大きな魅力です。水彩画のように描く場所の形に合わせた筆で描けばカタンですが、筆跡は単調で魅力は出ません。水墨画では大きな筆一本で何でも描いてしまいます。具体的なイメージの形を表したり、それ自身の抽象的な筆跡の美しさとなったり、その両方だったりと、抽象、具象を自由に行き来します。筆を使いこなすには地道な長い年月の練習が必要となりますが、習得すればするほど、自由な筆跡を得ることができ、表現が深まります。 また、思考や感性が反射的に筆の動きとなるよう毎日、書道の練習もしています。
さて、十年程前から京都で水墨画の画塾をはじめました。東京でも年に三〜四回の水墨特別講座を開いています。 また海外の人たちにワークショップやセミナーを開く機会も増えてきました。外国の方もとても熱心で、僕は彼らから分からないことへの好奇心や知らない世界を通し自分の視野を広げる情熱を強く感じました。 技術は身体で覚えるものですが、教えるには言葉も必要です。言語化することで、生徒と共に僕自身も水墨画の理解を深めています。これからも機会を作って、熱意のある人に、水墨画の魅力を伝えてゆきたいと考えています。
展覧会
作品の発表は、毎年定期的に東京、大阪で年に三度の個展と、二つのグループでの展覧会に参加しています。また要請があれば海外での展覧会にも出向いていて、2012年にはヴェネツィアでの個展、フランス(2011年、2012年)やボルトガル(2011年)でもワークショップや講義も兼ねて個展を開催しました。
個展会期中は、どこであれ、作品を通して様々な人と知り合うことができることは楽しいものです。不思議なもので僕の絵に共感してくれる人は、互いに近い感性を持ち合わせているせいか、その後親しくなってゆくことが多いのです。また人が人を呼び、いろいろな意味で僕の世界を広げてくれて、今の自分があります。描き出した作品と共に、絵を通して知り合った人たちもまた僕の財産なのです。会期中のギャラリートークやデモンストレーションで水墨画の魅力を紹介できるのも展覧会の楽しみの一つになります。
作品の展開
展覧会以外の制作活動としては、小説の表紙や挿絵、カレンダーの絵等の印刷物やテレビ番組の背景画等依頼があったものを書き下ろしで描く仕事もしてきました。好きな作家の表紙を飾ることや、物語を絵にすることはとてもやりがいのある仕事です。小さな一枚の絵で壮大な物語を描くことで、象徴的な表現を意識するようになり、そのことはそれ以後の作品制作にも新しい風を吹き込んでくれます。
また、お寺の襖絵も描かせていただいています。歴史があり、これからも長く残される空間に描くというのは、個人の物語を好きな人に見てもらう個展の作品とは根本的に違う責任を感じます。テーマの設定は特に悩み、考え、制作に長い時間がかかりましたが、今まで一つ一つのモチーフを描いてきた経験が、全てここに収斂してくるようで、とてもやりがいのある仕事です。
最近は、襖絵のように必要とされる大切なメッセージを絵という形にして、公共の空間に意味を与えるような仕事をしてゆきたいという気持ちが強くなってきました。
現代は絵というものに、画家自身の自己表現というイメージが強くなりすぎているように思います。作家個人の物語だけではなく、社会に共通の物語も描いてゆきたいと思っています。 今はイギリスの戯曲の絵本を手掛け、次は屏風での涅槃図の大作に挑みます。
出典: 画集「墨いろの光」2015年・日貿出版社刊「制作ノート」より